哲学辞典

哲学の言葉を、出典までさかのぼって引く

世界内存在

せかいないそんざい

原語
In-der-Welt-sein(ドイツ語)
表記
三語をハイフンで連結する。これはひとつづきの現象を指すことを綴りで示すため
英語圏での扱い
Being-in-the-world(Macquarrie & Robinson 訳・1962年)
主要な使い手
マルティン・ハイデガー
主な出典
『存在と時間』(Sein und Zeit)1927年・第12節
一言でいうと

人が「世界という入れ物の中に入っている」のではなく、はじめから世界に住み慣れ、関わりながら在る——その在り方そのものを指す語。主観と客観に分ける前の、切り離せないひとつの現象です。

やさしい定義IN PLAIN WORDS

「世界の中にいる」と聞くと、コップの中に水が入っているような絵を思い浮かべます。世界という大きな容器があって、その中に自分がぽつんと置かれている、という絵です。ハイデガーが否定するのは、まさにこの絵です。

朝、目を覚まして寝床から出る。ドアノブを握って回す。そのときあなたは、ドアノブを「観察」してから「これは回すものだ」と判断しているわけではありません。すでに使い方に慣れた世界の中で、いきなり動き出している。この「すでに馴染んでいる」在り方が世界内存在です。

だからこの語は、人と世界という二つのものの関係を指すのではありません。「関わりながら在る」というひとつの在り方そのものを指しています。

正確な定義STRICT SENSE

『存在と時間』第一篇第二章の表題は「世界内存在一般——現存在の根本体制として」(Das In-der-Welt-sein überhaupt als Grundverfassung des Daseins)です。世界内存在は現存在根本体制Grundverfassung)であり、人間と世界という二項の関係ではなく、現存在の側の規定です。

ハイデガーは第12節で、なぜこの語をハイフンで綴るのかを自分で説明しています。

„Der zusammengesetzte Ausdruck »In-der-Welt-sein« zeigt schon in seiner Prägung an, daß mit ihm ein einheitliches Phänomen gemeint ist."

「世界内存在」という合成された表現は、その造語のしかたにおいてすでに、それによってひとつの統一的な現象が意味されていることを示している。

『存在と時間』第12節(原著 S.53)

つまり綴り自体が主張になっています。ただしハイデガーは、この現象が「継ぎ合わせ可能な成分に分解できない」ことは、そこに複数の構造契機があることを排除しない、とも続けています。だからこそ次の三つの側面から分析されていきます。

「内」は空間的な内包ではないTHE "IN"

この語の核心は「内」(in)の意味です。ハイデガーは第12節で、「コップの『中』の水」「戸棚の『中』の衣服」を自ら反例として挙げて退けます。ベンチが講堂の中に、講堂が大学の中に、大学が都市の中に……と延長できる「〜の中にある」関係は、すべて眼前存在するもの同士の関係であって、現存在の在り方ではない、というわけです。

ではどういう意味か。ハイデガーはヤーコプ・グリムの研究(Kleinere Schriften, Bd. VII, S.247)に依拠して、次のような語源的説明を与えます。

※この語源論そのものが言語学的に妥当かどうかは争われています(英訳者も難解な箇所と注記しています)。本項では「ハイデガーがグリムに依拠してこう説明している」という事実として記載しています。

したがって順序が逆転します。現存在がまず空間の中に置かれ、そのあと世界と関わるのではありません。世界内存在という在り方があってはじめて、現存在に固有の空間性が可能になる——これがハイデガーの主張です。

主観と客観の解体AGAINST DUALISM

第13節でハイデガーは、認識を「主観と客観のあいだの関係」として立てる考え方を名指しで批判します。

„Subjekt und Objekt decken sich aber nicht etwa mit Dasein und Welt."

しかし主観と客観は、現存在と世界に重なり合うのでは決してない。

『存在と時間』第13節(原著 S.60)

世界を認識すること(Welterkennen)は、内存在の基づけられた(fundiert)派生的な様態にすぎない、というのが第13節の主張です。まず馴染みのある世界の内で関わっていて、その関わりが滞ったときにはじめて、対象をじっと眺める「認識」という構えが現れる。順序が逆なのです。

この転倒によって、「内なる主観はどうやって外の世界へ出られるのか」という近代哲学の難問は、解かれるのではなく、問いとして成り立たなくなります。現存在ははじめから外に出ているからです。

三つの契機THREE MOMENTS

第12節(S.53)で、ハイデガーはこの統一的現象を三つの側面から取り出します。どれか一つを取り出すことは他を共に取り出すこと、すなわちそのつど全体を見ることだ、と注意が添えられています。

契機問い展開される章
「世界の内」世界とは何か=世界性Weltlichkeit第3章(§§14–24)
「誰が」世界内存在するのは誰か=共同存在と世人das Man第4章(§§25–27)
「内存在」そのもの「内に在る」とはどういうことか(In-Sein第5章(§§28–38)

混同しやすい点:情態性(Befindlichkeit)・了解(Verstehen)・語り(Rede)を「三つの等根源的な契機」として挙げる解説がありますが、それは上の第三の契機「内存在」の内部の三分節(§§29–34)であって、世界内存在そのものの三契機とは別のものです。

関連する道具の分析IN CONTEXT

世界内存在の分析は、身の回りの道具の分析へ進みます。第15節でハイデガーは、道具(Zeug)が自分自身の側から現れる際の存在様式をZuhandenheit と呼びます。ハンマーは、じっと眺めているときではなく、打ちつけて使っているときにこそ、そのものとして現れる。これに対し、単に目の前に転がっている物としての在り方が Vorhandenheit です。

道具は単独では存在せず、「〜するためのもの」(Um-zu)として道具全体性のうちにあります。この指示(Verweisung, §17)の連関が織りなす有意義性(Bedeutsamkeit, §18)こそが「世界」の世界性だ、というのが第3章の結論です。そして道具に関わる配慮的な気遣いBesorgen(§12)です。

Zuhandenheit / Vorhandenheit の日本語訳語は訳者によって大きく揺れます。用具的存在/客体的存在、道具的存在性/事物的存在性、手許存在性/眼前存在性、手もとにあること/目の前にあること、などの訳し分けが流通しています。本項ではどの訳語が誰のものかの断定は避け、原語を併記しています。

よくある誤解・混同しやすい語COMMON CONFUSIONS

混同されがちな理解実際のところ
世界という容器の中に人がいる 第12節が自らこの解釈を反例として退けています。「〜の中にある」という空間的な内包は眼前存在するもの同士の関係で、現存在の在り方ではありません。むしろ現存在に固有の空間性は、世界内存在に基づいてはじめて可能になります。
「世界」=物理的な宇宙・地球 第14節でハイデガーは「世界」の四つの意味を区別し、術語としては「事実的な現存在がそこで生きている、その『何のなかで』」の意味で用いると明記しています。存在者の総体という意味で使うときは、引用符つきの「»Welt«」と書き分けられます。
主観と客観の関係を言い換えただけ 第13節が明確に否定します(上記引用)。さらに第19〜21節では、世界を res extensa として規定したデカルトが主題的に批判されます。
フッサールの生活世界と同じ 同一ではありません。フッサールが生活世界(Lebenswelt)を超越論的主観性への還元の途上に置くのに対し、ハイデガーは主観性そのものを世界内存在から解体します。
なお両者の成立の先後や影響関係の向きは研究者のあいだで争いがあり、確定していません。

出典SOURCE

主要典拠
マルティン・ハイデガー『存在と時間』(Sein und Zeit1927年
第一篇第二章「世界内存在一般——現存在の根本体制として」第12節(S.52〜)で導入され、第13節(S.59–63)で内存在が世界認識という様態から例示されます。
初出媒体
フッサール編『哲学および現象学研究年報』第8巻。同時に Max Niemeyer Verlag より単行本として刊行。公刊されたのは「前半」のみで未完です。
関連節
世界性=第3章(§§14–24)/世人=第4章(§§25–27)/内存在=第5章(§§28–38)

日本語で読める版

※日本語では「世界内存在」のほか「世界‐内‐存在」「世界=内=存在」などの表記も用いられます。原語のハイフンが「分解できないひとつの現象」を示す働きを、訳文でも残そうとした表記です。

関連語RELATED TERMS

この言葉を学べる本

世界内存在は『存在と時間』の前半をまるごと支える概念です。原典に当たる前に見取り図があると迷いません。