『哲学の誕生』書評——一冊も書かなかった男を、なぜ私たちは知っているのか
★★★★★4.5 / 5.0(編集室評価)
結論: 『弁明』と人物入門のあと、「もっと深く」の一冊はこれです。ソクラテスは一冊も書きませんでした。では私たちが知っている「ソクラテス」とは誰なのか?——この謎を、死後に弟子たちが競作した「ソクラテス文学」の再構成から解き、そのまま「哲学(フィロソフィア)という営みの誕生」まで連れて行く、学術的で、しかし文庫で読み通せる本格解説です。
どんな本か——3行で
『弁明』の訳者でもあるプラトン研究の第一人者・納富信留が、「ソクラテスとは何者か」を史料の底から問い直した本です。原本『哲学者の誕生』(ちくま新書・2005)を増補改訂して学芸文庫に収めたもので、新書の読みやすさと専門研究の裏付けを兼ね備えています。
核心——「ソクラテス文学」という発見
ソクラテスの死後、プラトンだけでなくクセノフォン、アンティステネス、アイスキネスら多くの弟子たちが、競うように「ソクラテスが語る作品」を書きました。本書はこの「ソクラテス文学」というジャンルの競作合戦にこそ注目します。私たちの知る「ソクラテス」は、一人の実在の記録ではなく、死を悼む弟子たちの文学的競争の中で生成した像である——それは像の否定ではなく、「哲学」という営み自体が、この競作の中で言葉と形式を獲得していったという発見につながります。「フィロソフィア(知を愛すること)」という言葉の定着にソクラテスの死が果たした役割を追う後半は、知的スリルという言葉がふさわしい展開です。
読みどころ3点
1. 競作するソクラテスたち
プラトンのソクラテス、クセノフォンのソクラテス、喜劇作家が笑いものにしたソクラテス——複数の像を並べて見せる前半は、『弁明』を読んだ直後だからこそ効きます。「自分が読んだのはプラトンの絵だった」と自覚する瞬間が、この本の入口です。
2. 「無知の知」の再検討
広く流通する「無知の知」という定式そのものを、史料に即して問い直す部分は本書の白眉です。標語で知った気になっていた読者ほど、遠くまで連れて行かれます。
3. 哲学の「誕生」の現場
哲学は最初から存在した学問ではなく、ソクラテスの死という事件をめぐって発明された営みだった——この視角の転換は、本棚のどの本にもない本書だけの贈り物です。
注意点
二点。第一に、本書は学術的な議論の運びをします。史料批判の手続きに付き合う忍耐が必要で、最初の一冊には向きません——『弁明』と田中本のあとに開いてください。第二に、「無知の知」の再検討など、通説への挑戦を含みます。標語の確認ではなく、考え直すための本として読むのが正しい姿勢です。
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